森で野生の子鹿に遭遇。あとから母親と兄さんらしき二頭が続いてきたが、この子は怖がらず近くまで寄ってきてこちらを興味深くじろじろと品定めをしている。こんなに親しみをもって見つめられると、かわいくてニーナやモウと仲良く遊ぶ姿や、スーパーへも一緒に買い物とか、家へ連れて帰ってペットにしたくなるんだけどねえ。
からっと晴れ上がった早朝は川のせせらぎが耳に心地いい。昇った日の光は眩しいけど、体にエネルギーを注入してくれているように感じて力が漲ってくる。一瞬、ここはどこ、私はだれ?なんて現実から抜け出してファンタジーの旅が始まりそうだ。
この湾は海岸線から200kmほど内陸へ複雑に入り組んでいるので、ほとんど淡水なんだろう。日だまりになった水面近くへ小魚が藻を食べに来ている。光をうけた魚体が方向を変えるたびにきらきらと銀色に輝いてとてもきれい。イエローパーチの子供かな。
田舎道を歩くと廃屋になった納屋によく出会う。割れた窓から覗いてみたら、中は伸びた雑草におおわれていて昔の痕跡は何も残ってなかった。京都で、外見は普通の住宅なのに中に一歩入ると小物を売る店だったり、小料理屋だったりして驚いたことを思い出す。こんな古い納屋が、意外や意外、1階は洒落たバーで2階3階はイタリアンレストラン、屋根裏は何部屋か泊まれるファンシーなルームがあったりすれば楽しいね。草むらが大きな駐車スペースだ。雨の日はいいだろうなあ。この静かな雰囲気の中で草原に降る雨の音ってどんなだろう。
スナップ写真は直感的に自分が気にいったものを撮る。それはその人物に興味があるとか、動作の瞬間を撮りたい、光がいい、美しい、形がいい、色がいい、構図がいい、情景が艶やかだ、風情がある、情緒を感じるなど、いろいろな動機でシャッターボタンを押すけど、何故それを撮りたくなったかなんて具体的な理屈を考えることはない。そして写真を見る人も、それぞれ思い思いの鑑賞の仕方でストレートに楽しめればいい。そして想像の輪を広げていってくれればいい。
しかしいつもそのように撮っていても、「直感」のもっと奥底に芯になる自分の写真感念があるはずで、それは何だろうと長い間モヤモヤしたものがあった。撮る写真に対する明確なイズムがないので言葉で表せないのだ。記念写真でもないし記録でもない。ジャーナリスティックな視点もないし、ドキュメンタリーでもない。
最近「HUMANS OF NEW YORK」という写真集を見て、その答えを見つけたような気がした。NY在住フォトグラファーのブランドン・スタントン(Brandon Stanton)は街を歩きながら通りがかりの人に話かけ、シャッターを切りながらその人の素性や過ごしてきた人生、現在の生活の状況や今後どうありたいかなどを聞き出し、許可をもらってブログに写真と会話の要旨を書き込み、いろいろな人びとの生き様を作品にしている。
その写真集は、NYという大都会に暮らす、あるいは旅行で歩いている豆粒のような人びとが、それぞれの運命を背負って懸命に生きているドキュメンタリーで、見る人が写真の一人一人に興味を持ち、ほっとしたり、喜んだり、悲しくなったりと心を動かされる。彼の人情味ある被写体への接し方は、過去の有名なフォトグラファーの写真から受ける感動とは異なったものだった。
そして自分の場合は相手が気づかないうちに人物や風景にカメラを向けるが、被写体の実態にはあまり関心がなく、見たときからそのシーンを映画ドラマの一コマのように現実から切り離し、転化させ、自分なりのイメージを作り上げている。そんな撮影スタイルは彼とは真逆で、写真の情景は虚像を表現しようとしているということだ。
写真そのものは光学的に実像であっても、自分が撮ろうとしたのは現実を屈折させた画像であり、実態であるかどうかは関係のない写真であるということを、「HUMANS OF NEW YORK」は明確に気づかせてくれた。撮るのは現実に目の前にある事柄や状態なのだが、それは撮影者の自分にとっては空想に対する実在であって、事実として存在していない虚像でしかないのだ。
近年、自分のイマジネーションの拡大は更に大きくなっているように感じる。それと関係があるのかどうかは分からないが、たまに現実と見た夢が混沌とすることがある。ふと電車の駅に忘れ物を取りにいかねばと焦って、しばらくして今の生活に駅はなく車しか乗らないことを思い、前夜見た夢であることに気づくようなことが度々起こる。
数年前、兄がアルツハイマーを伴って亡くなったが母の遺伝らしい。だとすると同じジーンを持つ自分に病がやってくるのも遠くないかもしれない。撮ろうとするシーンへの思いも含めて、これらの現象はその始まりかと思わないでもない。もしそうであればこの妄想のプレイが多くなるのも成り行きだろう。それはそれで心遊びの楽しさが増えていいのだが、現実の世界から外れるようになっても、できれば抽象画でなく印象画の世界へ入っていきたい。
スタントンは常に「現実の実態」を直視し、自分は「現実の虚構」を自由奔放に撮り続けていくことになりそうだ。
( 2014.08.29 )