啓蟄(ケイチツ)とは、寒さで土の中に縮こまっていた虫が3月上旬頃に春の暖かさを感じて、もそもそと外に這い出してくることを言うらしい。シアトルも最近漸くその頃合いになってきた。ダウンタウンは多くの人たちが行き交い、住宅地には州花のシャクナゲが家々の玄関口を淡いピンク色で飾り始めた。
さて自分はといえば気温が上がるにつれ筋肉がほぐれて体も軽く感じるし、それよりも気持ちがふくれてじっとしておれない。草木のように体が成長するということはないにしても、この中で何かがポップコーンのようにはじけているようで落ち着かない。これが虫と同じく啓蟄の感なのだろうか。
この気が高まる時に自分の生活で新しくスタートした一つにモノクロ写真がある。切っ掛けは先日の東京滞在中にLeica M Monochromというカメラが手の中にポロンと落ちてきたことだが、モノクロ専用機なので今までのようにとにかくRAWで撮っておいて、後でカラーより白黒の表現の方が適していると思えばモノクロ変換するのではなく、先ずモノクロとしての良さを認識した上で被写体を撮る目と感覚を養わなければならないことになった。この写真の場合、やんちゃ坊主のようなかわいらしさを写しとるにはカラーで他との紛らわしさがない白黒がいいだろうとシンプルに思った。
ダウンタウンのFairmont Olympic Hotelの中にジョージアンというレストランがある。フレンチ風のすばらしく洗練された味は勿論、皿に盛られた料理の形や色のプレゼンテーションが芸術的で、その品のよい華やかさはナイフとフォークを手する前に既に満足感が充ちてくる。質の高い和食と同じく料理人の誇りときめ細やかなサービス精神が伝わってきてうれしい。部屋の中央に配された生け花も頻繁に入れ替わり、リターン客を喜ばせてくれる。
プラタナスの青葉がさわさわと揺れるのを見ながら窓辺のカウンターでランチを楽しむカップル。右下にいる横を向いた野球帽が自分で脇腹からのショットだが、たまたまレンズが彼女の目と合ったときにシャッターを押したようだ。
日曜休みの小さなレストランを裏口のドア窓から覗いたら、正面向こうの通りが見え、遅い午後の光が暗い室内にまだらに抜けてきて、とてもゆったりとした時を感じた。このトーンの美しさと共に、モノクロがその雰囲気をうまく描写してくれた。
春のあたたかな風がストリートを通り抜ける。歩きながらその方向に顔を向けて気持ちよさそうに髪を流す彼女にシャッターのタイミングが間に合った。すれ違った時のさわやかなラベンダーの香りが忘れられない。
M Monochromを1脚に付け、M9を肩からさげて歩いていたら、昼間からテキーラの水割りらしきものを飲んでいた彼が「フォトグラファーか?」と声をかけてきた。手前から何となく気になっていた場面だったので、これはチャンスと正面に1脚を立て、気づかれずに何枚か撮ることができた。28mmレンズは相当近くへ寄らないと主題を大きくするためにトリミングの必要も出てくるが、被写界深度が深いので置きピンで咄嗟のスナップでも便利に使える。
やはり春は色が溢れている季節だから、カラーで撮りたくなる明るい街風景が多くある。
曇りで小雨が降ったり、時々薄日が差す寒い日に立ち寄ったサマミッシュ湖の、そのとても静かな佇まいが滑らかなモノトーンでやさしい描写になればと思った。
天気はあまりよくなかったが、散歩がてらポプラの若葉を見にモウを連れて少し川沿いを歩いた。久しぶりに「ウエイト」「ラン」を覚えているか試そうと思い、相当離れて「ラン」と呼んだら、走る走る、ハイヨーシルバーのように颯爽と、いや実は深い草に短い足をとられ、何度も転がりながら走って来たのはいいけど、何か見つけたのか通り過ぎていっちゃった。慌てて「カムヒア」と叫ぶ。なんと元気な奴。
カラーとモノクロを使い分けるのに2台のカメラを下げていると、西部劇の2丁拳銃のようにどうも大げさに見えてしまう。一方を小さなバッグに入れて歩けばいいのだが、いざという時にもたもたしてチャンスを逃してしまう。本当はM8の中望遠も持ちたいんだけど重すぎる。誰か飯付きの助手になってくれないかしらねえ。
肉屋の店内に何台かのテーブル席があって軽い食事とワインをだしている。やはり肉料理だろうか、いい雰囲気だ。最も気に入ったのは座っている女性の足首の星マークだ。気になったけどアップで撮るにはこのレンズの最短距離70cmまで這って近づかないとならない。これはやばいね。
古い煉瓦ビルの一角。誰が置いたのか窓枠の鉢植えに咲く赤い花が美しい。色はなくてもこんなアーキテクチャーはハイコントラストの質感のある白黒描写が似合うんだなあ。
今まで慣れてきたカラー写真でモノを見る目が先行するので、さてどのように感覚をモノクロにスイッチできるかがチャレンジだ。しかし大前提として「心に響いた要素」と「表現する要素」は対でなければならないのはカラーと同じだ。例えば一見モノクロ写真としてよさそうな光と影が面白い形を描いていても、目を楽しまさせてくれるだけで撮るべき要素には至らないのかもしれない。それは自分の意識も画像に映り込んでいなければ、その姿を単にカメラの撮影素子に移すにとどまり、意味合いのない写真になるということだ。