The Wind from Seattle

Vol. 21

The Wind from Seattle Vol. 21

風景の味わいは一年を通じて秋がいい。野を歩き林に入ると黄や、そして赤黄色だったり、うす茶、こげ茶と実に様々で、曇り空に低く漂う鈍い光が淡く滋味溢れた色彩を満ちわたらせている。そそり立つ草は緑を輝かせ、林へ立ち入るのを拒むかのように幾重にも壁を作る。しかしその色の変化に興味が尽きることはなく、草を割り先を目差す。

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今回は少し東に走ってスノコルミー(Snoqualmie)へやってきた。もう20年も前になるが、この辺りはデビット・リンチ監督のテレビドラマ「ツイン・ピークス」の舞台になった豊かな自然と生活が共存している場所で、小高い山や深い森や野が広がる田園地帯だ。

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まだ近代化されていないこの地方には、「ツイン・ピークス」のあの不思議な雰囲気の小さな町も残っている。昔は林業、鉱業が盛んで、山で伐採した木材や石炭をこのノーザンパシフィック鉄道の汽車が運んでいたそうだ。

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林道を抜けると秋色の自然に溶け込んでいる人の営みがある。この日は気温も低く、雪が降るのもそう遠くはない気配を感じた。草原も林も駆け足で色付き、冬へと急ぎ足だ。雨の合間、作物の取り入れに黙々と働く農婦の姿があった。

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視界の中で切り取られたその一つ一つの絵に心を奪われて見入る。そんな時は椅子にでも座って風景の中に埋まっていたい気持ちになる。いや来年は必ず軽い携帯イスを持とう。そしてカメラと軽食と暖かい飲み物をバッグに詰め、暗くなるまでゆるんだ顔でぼんやりと枯野の中で時を過ごすのを楽しみとしよう。

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秋といえばシャンソンのスタンダード曲で、過ぎ去った恋愛の美しくも悲しい余韻が残る「枯葉」がロマンチックな言葉の印象として心の中にある。辞書で見ると「枯れる」とは草木が水けをなくして死ぬ、また、体などに潤いや生気が無くなる意ともいう。そう言われると自分も高年齢者と呼ばれる年なので、この枯れるという言葉が迫ってくるが、ネガティブな解釈だけでなく、人や物が円熟して深い味わいを持つようになる、ともあるので何となくほっとしている。自分にとって「枯葉」はジュリエット・グレコの歌だ。とにかくこの秋の紅葉は深くなるにしたがって枯淡の味わいを出している。枯れていくその趣や情景がなんとも美しい。人間もそうありたいものだ。

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林道は幾筋にも別れていてどちらに行くか迷うことがある。こんな時上へ行く道を選ぶのは本能的に高いところへ出て広い眺めを望むからだろう。高台へいっても、木が生い茂った林ではそんな景色はほとんど叶うことがない。しかしそれが分かっていても、何かいいことがあるかも知れないと高く明るい場所へ向かいたくなる。

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秋の紅葉は一様ではなく部分的に少しずつ形や色模様を変えていくので、キャンバスに塗り重ねられて描かれていく油絵のように面白い。そして風で摺り合う木の葉の音がサワサワからカラカラとなり、その頃にはそりかえった細かな葉が小鳥の大群のようにあわただしく散っていく。

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雨雲の野を歩き、白樺やメープルの林に入ると濡れた幹がひっそりと立ち並び、上は風があるのか枯れていく葉を揺らす秋声が聞こえる。そして自分を囲む木の葉が歓迎してくれているように明るく輝いている。人影もなく、誰にも遭うことはないからか、自分が発する落ち葉を踏む音がリズムを奏でるように大きく響き、少し淋しさを感じる。辺りは静寂そのもので時折かさかさと枝にぶつかりながら落ちてくる大きな黄葉に気づき、それを目で追うのも楽しい。木枯らしが吹く頃は葉もすべて散り、雪が積もってこの道も白く覆われてしまうのだろうか。このまま息が絶えるまでずーっと歩き続けてもいい、とそんな気にさせるのも秋なのだ。