先月、Leica Akademieのワークショップがシアトルであったので参加した。11名と講師3名でNYの時と同じく有意義な内容の講習会だった。テーマは「Digital Black & White Photography」で、黒白写真は自然風景、建築物、抽象的なフォルム、ストリート、あるいは人物など、被写体は何であれ主題を相当しっかりと表現しなければ「味のない料理」と同じく、「意味をなさない写真」になってしまうので、そうならないようLightからDarkへの光の強弱や濃淡の階調、時には鮮明な線が描き出すMonochrome(モノクロ、写真の場合は黒白やセピア)ならではの描写をすることによって、被写体の印象を深め、秀逸な黒白写真作品を生みだすことを学ぶセミナーだった。被写体を見て黒白がいいかカラーにすべきかを識別し、それぞれの描写効果を計画することができる知識とセンスを持たなければならない。そんな話を聞くうちに、自分はしていなかったが、フィルムの現像、紙焼き、引き伸ばしなどをする人たちは、経験上既にそれを会得しているのだろうと思った。以前からカラーより以上にイメージを膨らますことができる黒白で、描写がカリッと鮮明であってもピンぼけであっても被写体から受けた印象を忠実に写しとって、それを後で自分や、他の人が見ても、撮った時と同じ感動が伝わり、背後にある物語を拡大して想像したくなるような作品ができるようになりたいと思っていたので、待望していた貴重な学習だった。
知識は得ても、これはBWだからこそ表現が生きる被写体だと、さっと見るだけで分かるプロ的能力はまだ持ち合わせていない。しかしこのセミナーで、良質なモノクロ写真を撮る必須条件は何であるかを知っただけでも、自分にとって価値のある参加だったと思っている。そしてフィルムで撮った写真を現像やプリントする際の濃淡、コントラストなど調整技術による表現効果があるように、デジタルならではのRAWからの現像やレタッチによる描写力を高めるテクニックがあるので、これも今後の重要な学習課題だと思っている。その他M9で撮る黒白写真の為の最適なカメラ設定や、ストリートに出ての撮影、評価の講義だった。あ、なるほどと思ったことでBWに適した被写体であるかどうかを見分ける一つの方法とはこういうことだと例に上がったことだが、Claude MonetとJackson Pollockの絵をモニター上に置いて、黒白に変換するとその意味が良くわかる。単に扁平で面白くないモネ(特に晩年)の絵と、立体的で力強い印象のポロックの絵がそこにある。
カラーでなくては面白くない被写体も多くある。自然光と人工ライトが織りなす色彩がとて魅力的だったり、色に富んだ陰影が豊かな光景は迷いなくカラー写真にしたい。
街を歩いていて、ふと出会う日常のシーンに気持ちが和むことがよくある。あれこれ忙しくしていると自分のペースを見失いがちで、この「何でもない風景」の中に自分の身を置くことで我に返り、「自分」を保つ助けにもなる。そしてカラーであれ黒白であれ、取りあえずシャッターボタンを切っておくのだ。
ウイークエンドの午後のひとときはこんな光景をよく見かける。遅がけのランチをゆっくりとりながらいろいろ考えを巡らせているのだろうか、贅沢に時間を過す姿はなかなか優雅でいい。
どの国にも街には楽しい市場がある。それも特に近代的に着飾ったものでなく、その土地の匂いがするそのままの市場がいい。小さくても大きくても人の流れや雰囲気は変わらなく、当たり前のように活気があって、生鮮食料品や畜産物を主に、乾物やその他多くの品物が声高く売られている。
そして大体八百屋さんの横の片隅に、錆びた足の椅子とがたがた動くすり切れたテーブルのある小さな食堂なんかがあったら、磁石に引きつけられるように必ず入りたくなる。こちらはご機嫌気分で「元気?」なんて声をかけてしまうのだが、店のおばちゃんは期待通り愛想がわるく、そして安いけどやっぱりおいしくない食事がでてきても全然腹が立たないのだ。
記念撮影をしていた。夏休みで帰ってきた子供たちと一緒に買い物だろうか。こんなにハッピーな雰囲気を見ると割り込んででも撮りたくなってしまう。どこの誰かも知らないが、非難せずに微笑んで撮らせてくれたこの家族が幸せに暮らしていけるよう、心の中で願わずにいられなかった。そして彼らが市場の中へ和気あいあいと消えていくのを目で追いながら、こちらも楽しくなってしまった。
買い物客か、店の人が休憩しているのか分からないが、ホットドッグなんかを頬張りながらこうして新聞を広げてほっと一息継ぐのも忙しい合間の大切な時間なのだろう。市場のコーナーにこのような場所が設けてあるのはありがたい。
市場から一ブロック離れたこの横町はあの賑やかさはなくどちらかと言えば静かな通りで、人の波の中での買い物に疲れたらこちらへ抜けて、散歩しながらの楽しいゆっくり歩きもいいものだ。
彼女の名前は「Laura」に違いない、いやそうであらねばならない。オスカーピーターソンの、その中でも一番好きな曲なのだ。この正体不明の不思議な魅力を持つローラのイメージを何十年も追い続けていた。ローラ、彼女の姿を鮮明に創ってはいなかったが、感覚的にその輪郭を頭の中では描いていた。そして先週たまたま入ったダウンタウンのタリーズで彼女を見た瞬間、足がとまってそのまま動くことも出来なかった。巡り会えたこの時の感動は今も新鮮に胸の中で渦巻いている。ローラがそこにいた。ついにローラに出会えたのだ。一人でラップトップPCを前にする彼女に思い切って話かけたい気持ちもあったが、やはりローラを現実にしてしまうことに躊躇した。もし名前がLauraでなかったら、そして実像が自分の思うローラでなく、自分のローラがいなくなってしまうのが怖かった。もう二度と会うこともないだろうローラは、その記憶のままこの世にいてくれただけで、その事実が十分自分を幸せにしてくれたのだ。Thank you, Laura…
ストリートシューティングはほとんどの場合出会いと別れが同時に進行する。今回は自分にとって実に大きな感動の出会いと、数分後には永久の別れがあった。そして残ったのは一枚の写真と何となくより所のない淋しさだった。