NHKから放映された日曜美術館「木村伊兵衛 天然色でパリを撮る」という番組をシアトルで見る機会に恵まれた。以前から木村さんの写真哲学には通ずるものがあり、好きな写真家の一人だったので大いに興味を持って見た、というか既に数回見直している。とてもいい構成で制作されていて彼が60年ほど前にパリに渡り、街や人が見せる一瞬のリアリティをライカでさっと撮った写真の紹介や、その撮影の足跡を現地で実際にたどり、現在のその場所の表情と見比べながら、木村さんのスナップショットの妙を語るものだが、実に面白かった。その頃は海外渡航がまだ自由でなく、パリでの身元引き受け人がアンリ・カルティエ・ブレッソンで、ガイド兼撮影コーディネーターがロベール・ドアノーとは何とも豪華なスタッフだ。そして使った実験段階のカラーフィルムがASA10というとんでもない低感度、レンズが明るかったとはいえ、あの有名な「コンコルド広場の夕暮れ」など、しかも手持ちとは正に神技だと思った。
被写体である人も動物もその背景には物語が潜んでいる。風景もその歴史や環境を背負って存在しているのだから、やはりストーリーがあるわけだ。このネコだってその生き様にはとても波乱があって、この辺りのリーダーとして毎日割り込んでくるよそ者と厳しい戦いに明け暮れ、丁度息をつくひとときの平和な日だまりを楽しんでいたのだろう。鋭い視線と腹の傷跡がそんな彼の生活を語っている。
通りがかりに出会う、これまた物語が潜んでいそうな被写体には、間に合えばカメラを向けてシャッターを切る。人をノーファインダーで撮るときは顔をそちらへ向けることはしない。後で写真を見て撮っているのを気付かれていたかもしれないと思うときもある。そしてこぶしが飛んでこなくてよかったな、とか考えるのである。街や人が見せる表情は様々で、その香りが伝わってくるような写真を撮りたいのだ。
当てもなく歩いていると、何故こんなものがここにあるのだろうと思わせるものに出くわすことがある。平らな草原に同じ高さに切られた木が無秩序に立っていた。こんな所に固まって育ったとは思えないので、おそらく人工的に立てられたものだろう。じゃあ何故。とまあこんな具合に思うときも写真にしたくなる。これ?私のIQをフル稼働させて分かりました。これはですねえ、マーシャルアーツのトレーニングスポットですよ。ほら、この木の上をヒョイヒョイと渡りながら技を出すあれでしょう。空には怪しげな雲がうねり、雪が深深と降っていたらいい絵になるでしょうねえ。 ブルース・リーはシアトルにいましたから、彼がひと知れず修行していた場所ですよ、きっと。
今日は春のように暖かないいお天気で、山の方から軽く流れてくる風が気持ちいいのです。鼻腔をくすぐる彼の匂いをものともせず、レンズを長い舌で舐められる危険を冒しても、やはりぐっと被写体に近づいてダイナミックな描写にしようと腹を据えるのがカメラマン魂なのです。どうですか、杉良太郎ばりのこの魅力的な流し目に、周囲の女性はめろめろだったですよ。
大好きな逆光写真だ。レンズフレアとレンズゴーストが実にドラマチックな演出をしてくれて、この単なる古い穀物倉庫に生を与えてくれているよう見える。本来フレアやゴーストはレンズの負の特性と考えられて、レンズのコーティングやフードでできるだけ押さえようとする。それを逆手にとって個性豊かな描写を狙う写真家もいるらしい。私は被写体を演出するために意識的にそれをすることはしない。サプライズで被写体がそれをたまたま見せてくれたときは本当にうれしい。物語が深くなるように感じるのだ。
冬の自然風景は色があまりないので、カラーで撮ると平坦な描写になることが多い。しかしこうしてモノクロームで見ると様相が変わる。その景色は決して淡泊なものではなく、黒白の濃淡だけの表現だが複雑で味わいのある絵が現れていることに気付く。日頃肉眼で色つきの世界を見慣れていて視界のものを色だけで判断してしまい、きっと光の微妙な強弱を見ることはしないで、もっと深く鑑賞できる筈の描写部分を削り取ってしまっているのだろう。だから写真で見るモノクロームの世界は先ず想像性を働かせてくれ、自分の頭の中でカラーを後付けしたり光を分析して写真から多くの情報を咀嚼でき、描写を深く味わうことができるのだと思う。
冬の落葉樹は葉が落ちて一見色気がない。普段は殺風景に見えるだけの街路樹も、ふと視点を変えて見てみると、何とも味わいのある小枝が複雑に伸びているのに気が付く。そしてそのカーテンを通して眺める街の建物の姿が、なかなか優雅に見えてくるのだ。そしてあと数ヶ月で緑の葉をいっぱい付けて、このビューは幕が下ろされてしまうだろう。これも木村伊兵衛さん曰く「街が見せる一瞬の表情」で、残しておきたいドキュメンタリーだと思うのだ。