2011年5月、「レンジファインダーな人達」の取材でヨドバシカメラのKさんがシアトルまで来てくださって数日間を共にした。あちこちストリートスナップをしたり拙宅での食事など密に交流し、互いの人生観、写真観などを語り合ったり、今でも思い出に残る楽しい時間だった。
その折にオンラインマガジン「フォト・ヨドバシ」で、シアトルからの便りをブログ(Shot&Shot)の延長でいいから写真と散文で綴ってみないかとお誘いを受けた。しかし個人の生活のメモ的なブログと、パブリックな写真専門の話題コーナーでは質が違うのでと一旦はお断りしたが、不定期で数回でも試してみたらと勧められ、結局お引き受けすることになった。そして2011年6月16日にVol.01を発行したが、当時はまさかそれを50回も続けることになるなど考えもしなかった。
プロの写真家のでもなく、エッセイストの作品でもない「The Wind from Seattle」を自分の通常の生活の一部のようなスタンスで、気負いもなくマイペースで続けさせていただけたのは大変ありがたく、「連載」に関して何の圧迫も感じさせなかったKさんに大いに感謝したい。
数か月前から「The Wind from Seattle」はVol.50を最終版にしようと考えていた。先日東京に行った折にKさんと意見交換し承諾を得たのだが、主な理由は、出会った被写体からのシグナルと自分のイマジネーションが呼応した時にカメラを向けるという撮影スタイルが、最近はテーマを考えて被写体を探すようになってきたように思え、本来の、「本能的にシャッターボタンを押したくなる感覚」に反した「写真作り」を意図する撮影が楽しくないからだ。この「The Wind from Seattle」に掲載された550枚の写真やキャプションを見ていると、特に初期の頃の純粋でひたむきな写真撮りの感覚を思い起こさせてくれる。自分に撮影技術とかスタイルの進化は求めない。先ずは初心に戻りたいと思う。
50回の掲載の中には写真や文の内容が希薄だったり、写真の彩色やコントラストが強すぎたり薄すぎたり、その他の不具合で見ていただいていた読者の方々に無駄な時間をおかけしてしまったことも多々あっただろうと心配している。しかし、時には日本とは違う「風」を楽しんでいただいたこともあるのであれば大変うれしい。
これでいいんだろうかと不安だったVol.01、2泊ドライブのVol.05、「孫子」の兵法と写真術奥義とが不思議に符合するVol.13、ライカアカデミーワークショップのVol.15、コロンビアリバーのVol.17、今でも心に渦巻く「Laura」のVol.18、静物画に興味を持ったVol.19、写真展のVol.25そして4次元画像を思うVol.47だ。孫子と4次元写真画像のくだりはもっと深く研究して本にでもしたい心境だ。
実は今年結婚50周年になる。仕事でも何でも次々と変化させていったこんなアップダウン男によくぞ添ってきてくれたと、妻に心から感謝している。こちらはVol.50で終了とはならないよう版を重ねていければと思っている。「50/50」って何かの符号だろうか。できればこの50周年記念として今までの写真から抜粋して、妻に進呈する「The Wind from Seattle」写真集をまとめることができればと密かに考えている。ただ制作に関しては内容の構成、編集、予算など、本作りの専門知識も必要だ。実行するとすればまたヨドバシカメラさんのお力を借りねばならないようだ。
このVol.50の写真は、今まで掲載された中で特に思いがあり印象深い写真を載せようと選んでいると、あれもこれもと多くなりすぎて、結局タンバールレンズで撮ったものに限定した。
最も好きな一枚は、たまたま写真展でも一番好まれた写真で、輝く黄光に包まれた母娘の一コマだ。
四季折々に見る自然の輝きはそれぞれの趣があってとても美しい。シアトルの秋は雨期に入るので、からっと晴れる日が少ない。しかしたまの快晴日には、さーっと降っていた雨で浮遊していた塵が大地に沈められたのか、ハッと思わせるクリスタルな光線が空間を透過し、目の曇りが拭われたかのようなすっきりとした風景に出くわす。
この柔らかな立体的描写をしてくれる1935年製のタンバールレンズ(90mm)の虜になってしまった。絞りを開ければ画像は滲むが、それでも芯は残る。これがこのレンズの特質だろう。
「ウイークエンドは雨音と共に」というタイトルでブログに載せた写真だ。「レンジファインダーな人達」で紹介していただいた。雨で撮影のコンデションはよくなかったが、少し絞ると細かなフォーカスラインが表れる。
Vol.01の一枚だった。プラタナス通りのギャラリーの前で視線を感じ、ふと奥を見ると一人の女性がじっとこちらを見ていた。昔のガールフレンドに出会ったような、或いは以前見た映画の物語かなにかとオーバーラップしているのだろうか、不思議な空気に戸惑いながら暫く見つめ合った。そしてときめく胸を静め、カメラを彼女に向けた。
定番のように登場したプラタナス通りでは、四季が移り変わる雰囲気を楽しんだ。
秋の紅葉は一様ではなく部分的に少しずつ形や色模様を変えていくので、キャンバスに塗り重ねられて描かれていく油絵のようだ。そして風で摺り合う木の葉の音がサワサワからカラカラとなるその頃には、そりかえった細かな葉が小鳥の大群のようにあわただしく散っていく。
90mmは少し離れたところから撮れるので、気になる光景の瞬間を狙いやすい。
野生の小鹿バンビ君とタンバール君が互いに興味深くじろじろとにらめっこした時。
厚い雲の下、暗くなり始めた海は激しくうねり、風が波頭を粉々にしたその飛沫が光を含んだのか、突然銀の輝きを見せ始めた。その時彼方からペリカンが列をなして飛んでくるやいなや波の合間に踊るようにダイビングする。スポーティな遊びをしているのか、小魚を穫っているのか、それにしても一本の隊列を崩さないのがすごい。カメラもレンズも波しぶきに濡れていたがファインダーから目が離せず、このプロ集団のパフォーマンスと、荒波が向かってくるズズズズバーンズバーンという濤声に、自分もアドレナリンが体内で放出されて身が震えだし、壮大な楽曲のフィナーレの盛り上がりのような完璧な精神興奮の頂点に達した。
秋が深まるストリートは街路樹の紅葉も目立つようになってきた。寒い朝は人々が何となく足早に歩を進めている。自分はこちら側に立ち、同じ時同じ空間で肌にあたる風の冷たさも感じながらカメラを向けている。
長い間ストリートスナップをしてきたが、ひたすら「他の人々」を撮った2次元画像という思いしかなかった。しかしよく考えてみると、このシーンを撮りたいという意思をもってシャッターボタンを押しているボクもここにいるので、3次元的見方をすれば画像には自分も含まれている筈だ。更にその瞬間という「時」があるわけだから「ミンコフスキー時空」を加えれば、この写真は自分にとって4次元画像であるといえるのではないだろうか。
そしてVol.50にこの一枚は外せない。タンバールではないがElmar 65mm f3.5で撮った愛するニーナ。先月出張で日本へ発ったその日の夜、彼女はもっと遠くへ旅立ってしまった。成田へ着いて知った時のショックは大きかった。シアトルへ帰っても彼女がもういないなんていう現実は考えられなかった。街でも森でも、寝るときも一緒だったのに。でも今は掲載写真のいたるところでピョンピョン跳ね回っていることだろう。
また何らかの機会に読者の皆さまにお目見えすることができれば幸いです。5年もの間本当にありがとうございました。
末筆ですが、お世話になりましたヨドバシカメラのFさん、構成について常にアドバイスを下さったKさん、編集でお世話になったIさん、Nさん、Mさん、そして英語への翻訳をして下さったNさん、その他掲載に関わっていただいた皆さまには心から感謝いたします。
( 2016.02.18 )